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大阪高等裁判所 昭和55年(ラ)728号 決定 1981年2月09日

抗告人 山川良次 外二名

被相続人 (亡)山川治

主文

本件各抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人らの負担とする。

理由

一  本件抗告の趣旨及び理由は別紙のとおりである。

二  当裁判所の判断

記録によれば、原審判理由2(1)ないし(5)記載の事実(原審判一枚目裏一〇行目から三枚目表四行目まで)を認めることができる。よつて、右記載を引用する。なお、記録によれば、抗告人らは昭和五五年九月一六日受付をもつて前記土地、建物につき抗告人らに相続を原因とする所有権移転登記を経由している事実が認められる。

右事実によれば、抗告人らは昭和五四年六月二六日被相続人の死亡により自己のために相続の開始があつたことを知つたものというべきである。

抗告人らは、民法九一五条一項にいう「自己のために相続の開始があつたことを知つた」というためには、相続人が、被相続人の死亡の事実を知つたこと及び自己がその相続人であることを知つたことの外に、更に被相続人の相続財産につき積極財産及び消極財産双方の概要を錯誤なく覚知することが必要であると解すべきであり、そのように解しなければ、相続人は常に予想外の相続債務を負担することによつて自己の生活まで破壊される危険を負わなければならないことになる旨主張する。

しかし、民法九一五条一項にいう「自己のために相続の開始があつたことを知つた」とは、被相続人が死亡し相続が開始したことを知り、かつ、自己がその相続について相続人となつたことを知つたことをいうと解すべきであつて、抗告人らの右主張は採用することができない。抗告人らの主張するような危険を回避するためにこそ民法九一五条以下の三か月の熟慮期間及び右熟慮期間伸長の制度と、同法九三八条以下、九二二条以下の相続の放棄及び限定承認の制度が特別に設けられているのであり、もし、抗告人主張のように解するならば、「自己のために相続の開始があつたことを知つた」時期を一方的に相続人に有利ならしめ、なるべく早く相続による権利関係を確定させようとする法律の趣旨に反する結果となる。

抗告人らは、家庭裁判所の審判により特別に伸長された期間内(昭和五四年一二月二六日まで)に相続放棄か限定承認の申述をすることにより容易に未知の負債を相続する危険を回避できたのに、これをせず、単純承認の効果が生じた後である昭和五五年一〇月八日に至つて本件限定承認の申述をしたものであつて、右申述は却下を免れないものである。

よつて、原審判は相当であつて、本件各抗告は理由がないからこれを棄却し、抗告費用は抗告人らに負担させることとして、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 川添萬夫 裁判官 菊地博 庵前重和)

別紙

抗告の趣旨

原審判を取り消す。

本件を大阪家庭裁判所堺支部に差戻す。

との裁判を求める。

抗告の理由

1 原審判は、抗告人らが被相続人の死亡当日に、その死亡の事実を知り、又遺産として本件土地家屋が残され、これを相続すべきことを覚知したことは明らかであり、この事実は、民法第九一五条一項の「自己のために相続の開始があつたことを知つた」ことに該当する。従つて、抗告人らの申立により伸長された昭和五四年一二月二六日の熟慮期間中に限定承認の申述をすべきであつたのに、本件申立は期間経過後の昭和五五年一〇月八日に至つてなされたものであるから不適法であるとしてこれを却下したものである。

2 しかしながら、原審判は民法第九一五条一項の解釈を誤つたもので承服できない。

即ち、「自己のために相続の開始があつたことを知つた」というためには、相続人が、被相続人の死亡の事実を知ること、自己がその相続人であることを知ることのほかに、更に、被相続人の相続財産につき、積極財産及び消極財産の双方についてその概要を錯誤なく覚知することが必要と解すべきである。本件についてこれをみるに、相続人らは積極、消極両財産の概要がつかめなかつたため熟慮期間の伸長を求め伸長後の熟慮期間内においては、積極財産としては本件土地家屋その他が、消極財産としては債務約九〇〇万円がそれぞれ存在することを知つたけれども、上記熟慮期間内には、債権者石橋芳夫の約一、五五〇万円の債務については遂に知ることができなかつたのみならず結果として消極財産の概念的な全貌をも知ることができなかつたのである。従つて、被相続人の相続財産の内容を錯誤なく覚知した昭和五五年九月二六日に至つてはじめて民法第九一五条一項にいう「相続の開始があつたことを知つた」というべきであるから、抗告人らの限定承認の申述は受理されるべきである。

以下その理由を述べる。

3 上記のように、抗告人らが、被相続人の相続財産につき、積極財産及び消極財産の双方についてその内容を錯誤なく覚知することも必要と主張するのは、それが相続制度、限定承認制度の趣旨に合致すると考えるからである。即ち、近代的相続制度においては被相続人の相続財産を相続人が相続するか否か、その自由意思にゆだねるのを原則とする。我が民法も単純承認の外に、限定承認、放棄の制度を設け、この原則を採用しているのは明らかである。これは、旧来の当然相続制度から脱却し、特に、債務超過の場合に、相続を放棄し若しくは限定承認することを相続人に許すことによつて、相続人が相続債務について無限に責任を負うことから解放せしめ、もつて相続人自身の生活が破壊されることを防ぐことを目的としているのである。そうするときは、右目的を達成するためには相続につき如何なる態度をとるかを決定する際に、相続人が相続する積極財産とこれに対する消極財産の概要について誤りなく把握し、債務超過若しくはその虞れのある場合か否か正確に判断できることが保障されていることが当然必要となるのである。そうでなければ、相続人としては常に予想外の相続債務を負担することによつて、自己の生活まで破壊される危険を負わなければならないのである。

なお、既に民法第九一五条一項の「自己のために相続の開始があつたことを知つた時」の解釈につき、相続放棄についてであるが、「相続財産として積極財産が皆無で消極財産のみが残存する場合」は、従来から必要とされていた「相続人において被相続人の死亡の事実を知り、かつ自己が相続人であることを知つたことに加えて、少くとも積極財産の一部又は消極財産の存在を確知することを要する」との理由で、相続放棄の申述を認めなかつた原審判を取り消し、差戻すとの決定がなされた例があるが(大阪高等裁判所昭和五三年(ラ)第四四七号判タ三八〇号七二頁)、この場合のように積極財産は皆無で、後に消極財産が相続債権者の請求により判明したときの相続人保護は右決定の立場ではかり得ても、本件のように、相続財産のうち熟慮期間中には積極財産及び消極財産の一部が判明したに過ぎない場合には、結局前記決定の述べている「被相続人の死亡後相続人の熟慮期間として定められている三ヶ月の期間内に、相続人に対し全く相続債務が存在する事実を知らせず、熟慮期間が経過するのを待つて突如相続人に対し相続債務の支払を求めるという巧妙な手段をとる事例が続出し、これがために相続の放棄をするすべを失い、父又は夫の遺した多額の債務に泣く数多くの妻子が居ることは公知の事実」であり「このような事態は、個人の尊厳とその意思の尊重を基調とする現行相続法の理念に悖ること甚しく、個人の幸福を重視する現代の社会通念に照らしても到底これを黙過することができない」との問題点を解決することはできないのである。即ち、前記決定は従来の判例の立場を一歩進めたものではあるが、なお右決定の要件からすれば、相続人が積極財産の一部を知るか、消極財産を知るか、いずれか一方が満たされたときから熟慮期間は進行することとなり、その期間経過後に如何に多額の消極財産が存在することを知つたとしても、相続人はもはや相続放棄等はできず、「父又は夫の遺した多額の債務に泣く」ことを甘受せざるを得ないのであつて、熟慮期間内にすべての消極財産の存在を知つていれば、相続人が当然相続放棄若しくは限定承認の申述をなすと予想される場合には、敢えて消極財産の存在を知らせず、熟慮期間経過後に至つてはじめて請求するという「巧妙な手段をとる」者が続出することとなるのは明白であり、本件の場合にも債権者が債務者である被相続人の死亡を知りながら期間中に何ら通知することもしなかつたのである。従つて相続人保護のためには、右決定を更に一歩進めて、被相続人の相続財産につき、積極財産及び消極財産の双方についてその概要を錯誤なく覚知することを要件とすべきである。

4 右のような解決は、他方で法が、熟慮期間として一定の制限を設けることによつて相続関係の安定を図ろうとした趣旨を没却するとの非難も考えられるが、相続関係の安定の内容は主に相続債権者の保護にあることからすれば、相続放棄にしても、限定承認にしても、本来相続債権者の債権の責任財産たるべきものはすべて提供されるのであつて何らその保護に欠けることはない。もつとも、単純承認の場合であれば、相続債権者は相続人に対し請求できるし、その積極財産をも債務の引当とすることができるから、その点では保護に欠けるようであるが、もともと被相続人の積極財産以上のものをその引当とすることが何らの合理性を有しないのであるから考慮する必要はない。

5 しかしながら、被相続人の財産と相続人の財産とが相続人の積極財産の処分等により混入し不可分の状態に至つているような場合にまで、相続放棄若しくは限定承認を認めることは、相続債権者の保護に欠けることとなるから、法もいわゆる法定単純承認制度を設けてこれを認めないが(民法第九二一条一号、三号)、本件では被相続人の積極財産はすべて相続人の財産とは明確に分離されているのであつて、問題とはならない。

6 以上のとおりであるから、本件においては、限定承認の申述は受理されるべきである。

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